「死ぬほど頑張れ」についてつらつら

例のあれ に関して、個人的に師匠と崇めてる人から色々指摘を貰った。

指摘を貰ったうえで、 「まだまともな意識があるなら、死ぬほど勉強すれば、運が良ければ大丈夫」 と言われた。

正直な話をすると、僕は「死ぬほど」という言葉が嫌いである。人間を軽視しているようだからである。

だけどその時はなぜか「がんばろう」という気になれた。 それを分析してみる。

前述したように、僕は「死ぬほど」という言葉が嫌いである。

嫌いになった理由としては、やはりブラック企業という言葉が盛んに出てくるようになってからであろうか。 「死んだらそこでその人の人生、終わりじゃん」 という発想である。

が、なぜあの時は「死ぬほど」という形容詞がついても嫌な気持ちにならなかったのだろうか。以下の理由が考えられる。

  • 心に余裕があった
  • 現に死ぬほど頑張ってない

心に余裕があった

多分余裕が無かったら本気で首を麻縄でくくってたかもしれない。

とりあえずなんか余裕があったからその言葉を受け止めれたのかもしれない。

むしろ師匠の言葉には「逃げ道」があった。

「嫌ならやめろ」

そういうメッセージがひしひしと伝わってきた。

現に死ぬほど頑張っていない

実際、死ぬほど頑張ってないのである。今までも、今日も。

知的好奇心を満たす事柄じゃないとのめり込めないという安易な理由で何もしてこなかった。それだけだろうけど、 好奇心が湧いたところで自分の体をいたわり過ぎていた節もあったことは否定できない。

睡眠時間は6時間以上取れ、飯は3食ちゃんと取れ、朝は毎日起きろ。

なので探究心を我慢してのめり込むということが逆になかったかもしれない。今日この頃。

まとめ

話があっちこっち飛んでしまったが、結局、 「本気で死ぬことを考えているのなら、その分本気で問題に立ち向かえ」 という話なのかもしれないと思った次第である。
邪魔が入れば、 「あー、除草剤って普通にドラックストアで売ってるんだ。あれを全部飲み干せば苦しいだろうけど死ねるのか」 とか普通に考えてる自分がいる。

そんな事を考えている暇や隙があるのなら、それを埋めるように勉強や仕事に熱心になればいいのである。 そう気付かされた気がする。

僕のいるインターネットは本当に幸せである。