憂うつな気分に陥ったときの外的アプローチ

はじめに

憂うつな気分に陥ったときに、大抵の場合、
「考え方を変えろ」
「違う、そうじゃない」
「もっと明るく!」
など、「精神面や思考法からのアプローチ」を投げかけられることが多いかと思われる。

考え方を一瞬で変え、しかも結果が即座に良い方向に反映されれば、それに越したことはないが、そうも行かないのが人間という生き物である。 ここ最近、私自身は悲観思考からは抜けれないながらも、1ヶ月前よりは生産的な活動ができている気がするので、書き留めておく。

外的アプローチ

内側(精神面)を変えようと、がむしゃらに頭の中で思考の試行錯誤をしたり、 逆に瞑想をして何も考えないようにする。といったことしてきたが、さほど改善される様子はなかった。 しかし、以下の3つを継続したり、少し間が空いてもいいから実践すると、意外と良くなっている気がする。

運道

ジョギングなり、筋力トレーニングのサーキットトレーニングをする。無理のない程度に。

ジョギングは本当にふざけたレベルで、歩いているのと同程度の速度しか出ないくらいの歩幅で走る。足を動かすテンポはややゆったりめである。 筋力トレーニングのサーキットトレーニングは、少し息が上がったり、頭が軽く痛くなったらその時点で数分休む。 それまではひたすら同じ運動をとりあえず疲れるまで動かしたら、すぐに別の運動を行う。ということをしている。

筋力トレーニングのときは、音楽に合わせて身体を動かすと、気持ち楽しくなる。

ヨガ

私はそこまで難しいポーズはしていないし、半畳あればできるポーズだけをやっている。

  • 猫ねじりのポーズ
  • ラクダのポーズ
  • ムール貝のポーズ

ヨガっぽいことはこれしかやってない。しかも寝る前のみ。

目標は30秒以上ポーズを行うことだが、急ぐと肉離れを起こしかねないので、
「ポーズが決まっていなくても真似する」
程度にとどめ、30秒伸びてる部分を意識しながら、力んでる部分はできるだけ力を抜くように努めて、 頭の中は「のびーるのびーる」なり「うんあーっ」なり「ゔぇあぁー」という、身体が伸びる擬音で頭をいっぱいにする。

サウナ・入浴(温冷交換入浴)

「いや、もう身体を動かす意欲もない」

気持ちはよく分かる。自分もそんな時期があった。そういうときはこれだ。

しかし、若干入浴方法が特殊かもしれない。 サウナの場合は、

  1. 6分から12分ほどサウナに入る
  2. 汗を洗い流して水風呂に10秒から60秒浸かる。冷たいシャワーでも可能
  3. 水分を取って5分から15分休む

以上を4回ほど繰り返す。浴槽にお湯を張っての入浴も、

  1. 20分から40分ほど湯に浸かる
  2. 冷たいシャワーを浴びる
  3. 水分を取って5分から15分休む

以上を3回ほど繰り返す。 理屈的には、このような温冷入浴を行うと、自律神経を刺激するので、精神的疲労も抜けるとかなんとかとのことである。

まとめ

最終的には、頭の中を支配している悩みごとが解決しないことには憂うつな気分からは逃れられないだろうが、

  1. 運動
  2. ヨガ
  3. サウナ・入浴

頭が上手く働かないのであれば、身体からアプローチするのも一つと思う。

人間の身体というのは面倒くさい作りになっているようで、
「身体を動かさないと眠れない作りになっている」
と、ラジオで90歳以上の産婦人科医の先生がある番組のコーナーで言っていた記憶がある。

身体を動かす気力もない場合、熱い環境と冷たい環境を短時間(1時間のうちに2, 3回とか)で何度も切り替えて、自律神経を刺激してやると、何かが変わるかもしれない。

「かもしれない」程度の言葉なので、一度、
「騙された」
と思って実行していただければ幸いである。よっぽど無理しないと死にはしない。

複数の外的アプローチが加わると、なお効果的かもしれないし、内的アプローチの作用も向上するかもしれない。

蛇足

ここまで書いたものを見返して思ったのが、
「現代人は『学習性無力感』に抗えるかが生きるためのコツかもしれないなあ」
と思った。

この間知り合ったWebライターさんがこんなことをTwitterで投稿していた。

> どうせ頑張っても無理……と何に対しても無気力になってしまうことを学習性無気力というのですが、これは小さな成功を経験すればいくらか和らぎます。
僕にとっての小さな成功経験は自分で自分の髪をカットできたことでした。こんな感じで、成功経験ってのはなんでもいいんです。

山田ユウキ@webライター

私のような性根の腐っている人間は、ちょっと筋力トレーニングができたり、ちょっとヨガができたり、ちょっとサウナと水風呂を行き来した程度では、
「頑張ったけど、これしかできなかった」
となりがちである。嫌でもなるのか好んでなるのか。多分好んでなっている。

なぜその様な感情に好んでなるかと言うと、学習性無力感に陥った状態から無力感から脱しようとする行為・思考自体が、 一つの強大な心理的負荷なのである。

人間であるなしかかわらず、生き物は大抵安定した環境にいると、その場から離れられなくなると私は思う。 もしくは学習する(してしまう)動物は、学習性無力感に陥るとも私は考える。

家畜として買われている牛や、子供の頃から鎖で繋がれた象がまさに「学習性無力感」に陥った人間以外の動物の例として的確だろう。

自己主張の学習性無力感

ともあれ、学習性無力感は自己主張の怠慢や、さらに悪化すると、漠然とした感情や思考の具体化の怠慢にも繋がり、
「なんかよくわからないけどゆううつなきぶんになりがち」
というより、もはやそういった言葉も出ず、
「うんあぁー」「ぐにゃぁー」
というような擬音語や擬態語を脳内で反芻するだけとなる。

そんな風になると、もはや文化的な社会生活を送れるとは私は思えない。

文化的な社会生活ができなかったとしてもだ、抑うつ的な擬音語や擬態語が脳内を圧迫しているその状態では、 自己の感情の主張を暴力で主張する意欲も失せているので、もはや生存活動の放棄をするしか、私には選択肢が思い浮かばない。

自己の感情の具体化の鍛錬

とはいえ、私の主観から言わせてもらうと、人間は曲がりなりにも文化的な生活をする権利をもはや義務のように与えられているため、 文化的生存活動はしなければいけない。であれば、 上手い下手や 地位名誉財産になるかどうかは置いておいて 、 自己の感情を表現・伝達する方法を、 改めて 探さなければならないと私は思う。

絵・文章・物語・音楽・歌唱・映像。なんでもいい。

私もこんなくっだらない文章を、誰の役に立ち、自分の地位名誉財産に繋がる訳ないと思いつつ、 自己の感情の具体化の鍛錬として、再開した。

ロボトミー手術で自我を摘出されることが許されず、己の自我を完全に捨てきれないで社会に適応できないし、 死ぬ勇気もないというのなら、他人と比較して優位になることをいい加減諦めて、自我をさらけ出したほうが、私はよっぽど苦しまない気がする。