鍛錬 ―漠然としたものの解像度を上げる―

まえがき

30歳近くになって、メモやコンテなどの手法による頭の中のアウトプットの仕方が分かり始めたきがして、もっと早く知りたかったと思う。 もっと自分の頭の中を手軽(紙と鉛筆ないしペンによる方法)な出力方法を知っていれば、 もっと若い頃(12歳とかそこらのうち)に妄想をたくさんアウトプットできたと思う。

私の過ち

道具というか、最終的な出力目標(電子データによる配布可能な媒体)にダイレクトに出力しようとして今までの人生を無駄にした気がするのである。 更にいうと、8歳頃から既に最初から自分の脳内のドチャクソ美しい映像・音楽・画像・文章を完璧にアウトプットしようとしていたから、毎度ものを作る度に萎えていたし、その結果何も作らなくなってしまった。 ラフでもいいので、作りたいものの断片を作っておき、後(1時間後でも1週間後でも1ヶ月後でも1年後でも)で完成に近づける。 そういうアプローチが、なぜできなかったのかずっと悔やんでる。

なぜ誤ったのか

思い当たる節としては、完成にダイレクトに到達できれば期間短縮に繋がると思い込んでいたのだろう。 中間に出すラフや下書きの類はどうせ破棄するのだから、最初からそのような工程を省けば最速で完成できる。そう思い込んでいたのだろう。 僕みたいな一般人類よりも劣っている知的生命体は、そもそも最初から完成品を作れるような能力を持ち合わせていなかったし、それを身に着けようともがいていた事そのものが間違ったアプローチだと早く気づきたかった。

私が正しいと思うアプローチ

最終的には、
自分の能力を適切に判断し 、適度に諦め、今後の自分に期待しながら鍛錬を積み重ね、その時その時にできる最高の作品を作り上げる」
というのが、多分苦しまない創作の方法だと思った。
武井壮理論になってしまうが、
「思い通りに頭の中の情報(妄想・感情)を表現できれば、創作なんて簡単」
なのだ。

まとめ

なので、心の中で言語化も映像化も音声化もできない「何か」を、そのままにせず、 日々・刹那の繰り返しの中でも、 その「何か」を頭の中でいいので形にする鍛錬 を怠ってはいけない。

あとがき

私は努力という言葉が嫌いである。主観的努力の度合い・客観的努力の度合い・そして結果が伴った私自身の体験が希薄だからだ。

英単語を80個、それぞれ120回を、一晩徹夜して、過労で胃の内容物を吐き戻してでも書ききったら、翌日には覚えるのか。私は覚えなかった。 漢字を74個、それぞれ50回書いたら、その漢字の読みや意味を一晩で覚えるのか。私は覚えなかった。

中学校の長期休暇明けのテストと、合格するまで放課後に再追試するあの制度は、ただの統制維持のための拷問にしか思えなかった。 教員に逆らったり、教員の期待に沿う成果を発揮できなければ、罰せられるという印象をよく擦り付けたと思う。

本来であれば、従順な生徒たるものは長期休暇中も努力し、単語・漢字を覚え、教員に怒鳴られて自己肯定感を皆無にすることを避けるという賢い選択をするのだろう。

私は今になっても、この長期休暇後の100問テストというやつの意義がよくわからない。

お察しのとおりだが、そのため英語や国語はとてつもなく嫌いな科目だった。数学に至っては解き方が分からなければ何もできないのでもっと嫌いな科目であった。

今は幸い国語(言語学的な側面)や数学・物理・科学・英語とは切っても切れない関係となった。

英語が読めなければ最新の技術は取得できないし、数学ができなければ効率の良いプログラムなんて書けないし、構文解析装置について考える必要があれば、国語は必須である。

主観的に努力したって、客観的努力が伴わなければ評価されず、更にいうと結果が出なければいずれの努力も無駄だったと評価される。

だが実際、世の中結果でしか評価のしようがないのである。 であれば、途中経過でも良いから、短い期間で出力できる結果を残さなければ、何も評価されないのだ。その評価する審判が自分であろうと。